プロビジョン2年 和訳[353]

【プロビジョン2年】Lesson10/The Underground Reporters【和訳】

このページではプロビジョン・コミュニケーション英語2年/Leeson1【The Freedom to Be Yourself】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【PRO-VISION2】Lesson1/The Freedom to Be Yourself【和訳】

Part1

1940年8月
の夏、ブデホヴィーツェの町に住むユダヤ人の少年少女は、毎日川沿いの遊び場で遊んでいました。そこは、彼らが集まって遊ぶのを許された唯一の場所だったのです。

15歳の少年、ルーダは、自分たちの自由を制限するナチスの法律に、いら立ちを感じていました。

彼は、すべての不当な規則に黙って従うのは嫌でした。

それらの規則の網をかいくぐるために、何かできることがあるはずです。

「そうだ!新聞を始めたらどうだろう」

うすれば、ユダヤ人の子どもたちや若者たちが一つにまとまり、創造性と想像力を働かせることができると、彼は考えました。

ルーダはタイプライターの前に座り、書き始めました。

毎日私たちの遊び場に来る人たちについて簡単に述べて、彼らに関する気の利いた感想を二、三付け加えたいと思う。

  • カレルはこの遊び場きっての悪童だ。大声を出してみんなを脅かす。
  • イリーナは年下も年上も含めて女の子たちみんなのお母さんみたいになっている。

ーダは全員についてのコメントの一覧をタイプし終わると、その新聞を『クレピー』と名づけました。

チェコ語で「ゴシップ(うわさ話)」という意味です。

たった3ページの長さで、部数は1部だけでしたが、みんなとても興奮し、手に取りたがりました。

「次の号も作ってくれなくちゃ」と子どもたちの一人が言いました。

ーダは数人の友だちから成る取材チームを結成し、次の号に何を載せるべきか話し合いました。

「スポーツ欄がなくてはいけないね」と、記者の一人が提案しました。

「ここでのサッカーの試合について、みんな読みたいんじゃないかな」

「詩もいいかもしれない」と、別の一人が付け加えました。

2号は、創刊号よりもさらに大きな成功を収めました。

みんなが詩を賞賛し、スポーツ記事にわくわくしました。

今や大人たちでさえ『クレピー』を読みたがったので、しまいには『クレピー』は町のユダヤ人社会全体に回覧されることになりました。

Get the Pictureの和訳







Part2

1940年秋
ダヤ人が町の通りを歩くことはますます危険になってきました。

たくさんの人が逮捕されました。

ルーダはいたるところで危険を感じずにはいられませんでしたが、『クレピー』が勇気を与える源であることは信じていました。

る日、彼は読者たちに呼びかけました。

「君たち一人一人が記者になってくれて初めて、ぼくたちは『クレピー』を続けることができる。何でも好きなことを書いてくれていい。家族や、好きな男の子や女の子のことを書いてもいい。あるいは、絵や漫画を描いてもいい」

「毎日」とルーダは続けました。

「ぼくたちがしていいこと、してはいけないことについて新しい規則ができている。でも、ただ一つ制限できないもの、それはぼくたちの心[思考]だ。

ぼくたちが考えるのを禁じることは、誰にもできない。だから、どうか頭を働かせて何かを書いてほしい。君たち一人一人に、何かしら伝えるべき大切なことがあるはずだ」

響はたいへんなものでした。

若者たちの誰もがみな、熱心に記事や詩や絵を投稿しました。

彼らは、新聞に掲載された自分の作品を見ると、誇らしさで胸がいっぱいになりました。

彼らは絶えず恐れを感じながらも、自分たちの自由を取り戻すために書きました。

ある詩は、強制労働に従事するユダヤ人の男たちを描いていました。

「1月の吹雪の後に」
今日、ユダヤ人は仕事に出かけた、
疲れた様子で雪かきをした…
人に見られるのを恥じる者もいた。
仕事に誇りを持て、
やつらにぼくらの強さを見せつけられるように!

『クレピー』は町のユダヤ人みんなの心を一つにしました。

『クレピー』は彼らに尊厳と、自由のために闘うという目的を与えたのです。

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Part3

1941年9月
況は日を追うごとに悪化していきました。

今や町のユダヤ人は、ほとんどすべての通りや店に立ち入ることを禁じられました。

子どもたちの遊び場さえも閉鎖されてしまいました。

ある不穏な噂が広がっていました。

すべてのユダヤ人を収容するため、ヨーロッパ中に強制収容所が建設されているというのです。

ーダは、自分たちみんなを脅かす不幸な運命に立ち向かう決意をしました。

彼は取材チームのほかのメンバーと会議を開きました。

ルーダは、『クレピー』をナチスに対してはっきりと抗議の声を上げる手段として利用するよう要求しました。

「ぼくは反対だな」と取材チームの少年たちの一人であるカーリが言いました。

「ナチスへの抵抗を公言したら、新聞そのものがなくなってしまう。軽い内容にしておかなきゃだめだ」

「わからないかい?」

別の少年、レイナがきっぱりと言いました。

「新聞そのものが抵抗の形なんだよ。ぼくたちが何を書くかはほとんど問題じゃない。新聞を作って回覧しているという事実こそが、一番大事なことなんだ」

の議論に結論は出ませんでした。

しかし、一つだけ確かなことがありました。

世の中がひどくいやな場所になってしまったということです。

町に残された、人々が楽しみにしている唯一のものが『クレピー』でした。

かし、新聞を続けるのは不可能であることがわかりました。

日に日に物が不足していました。

『クレピー』を作るのに必要な紙を買えるところさえ残されていなかったのです。

ある日、レイナが『クレピー』の第22号を届けに、ルーダの家に来ました。

「もうこれ以上は無理だな」と彼は言いました。

「もはやぼくたちが集まるのは安全ではないし、記事にする情報を集めるのも不可能だ」

ーダは沈んだ気持ちでその新聞を受け取りました。

結局それが最終号になってしまったのです。

彼が何よりも悲しかったのは、『クレピー』が象徴していた自由を失ったことでした。

「ぼくたちに何かあっても、この『クレピー』のセットがばらばらにならないようにしないと」とレイナが言いました。

ーダはうなずき、積み重ねられた『クレピー』の一番上に最終号を置きました。

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Part4

1942年2月
1942年2月初め、町のすべてのユダヤ人が最も恐れていた知らせが届きました。

全員が強制収容所へ送られることになったのです。

ーダも出発の準備をしなければなりませんでした。

彼は荷物をまとめながら、22号までの新聞一式を、自分がいない間、無事に保管しておける場所はどこだろうと考えました。

この先自分に何が起きるかわからないのだから、自分と一緒に持っていくことはできませんでした。

他方で、家に残していけば処分されるかもしれません。

『クレピー』はただの新聞ではありませんでした。

新聞作りに関わったたくさんのユダヤ人の少年少女の、生活や夢の貴重な記録でした。

彼らは『クレピー』を書くことで、自分たちを取り巻く憂鬱な状況を明るくしよう、いつか平和が戻ってくるという希望を持ち続けようとしたのです。

うとう彼は、新聞を保管するのによい場所を思いつきました。

新聞が無事に戦争を乗り切ることを祈るばかりでした。

『クレピー』に別れを告げるのは、親友に別れを告げるようなものでした。

4月、町のユダヤ人全員が列車で強制収容所へ送られました。

* * *

1945年の終戦までに600万人以上のユダヤ人が命を落としました。

ブデホヴィーツェの子どもや若者たちも、ほとんどが生き延びられませんでした。

ルーダはというと、ある日、収容所で働いている最中に、着ているコートを渡すようドイツ兵に命令されました。

彼はそれを拒みました。

彼は最期まで自分の権利と尊厳のために闘って、その場で射殺されたのです。

『クレピー』全22号は、無事に戦争を切り抜けました。

ルーダは、保管のためにキリスト教徒の友人にそれらを託していたのです。

そして戦後、『クレピー』は、奇跡的に生き延びたルーダの姉に返却されました。

『クレピー』は今、プラハのユダヤ博物館で展示されています。

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