プロミネンス 1年 和訳[330]

【プロミネンス1年】Lesson10/Save Washington Square Park【和訳】

このページではプロミネンス1/Leeson10【Save Washington Square Park】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【PROMINENCE1】Lesson10/Save Washington Square Park【和訳】

Warm Up

1.あなたはニューヨークで訪れるべき有名な場所を知っていますか?
2.あなたは街頭抗議を見たことがありますか?

Part1(p.138-139)

ェーン・ジェイコブズは、1950年代ニューヨークに住んでいたジャーナリストでした。

ジェーンは多くの点で普通の人でしたが、彼女は1つのこと(都市に対する深い愛情)について際立っていました。

ェーンは都市の生活が急速に変わりつつある時代に生きていました。

そのときまで都市は人々が生活し働く場所でした。

家庭と職場が同じ地域内にあったので、人々はその2つの間を歩いて行ったり来たりすることができました。

かし1950年代に自動車が大衆的になるにつれて、多くの人が都心部から離れて郊外に住み始めました。

歩く代わりに、彼らは今や自動車で職場へ通うようになりました。

の生活様式の変化は都市に大きな影響を与えました。

例えばニューヨークでは、多くの古い地区が通勤者用の新しい幹線道路の場所を作るために破壊されました。

れを見て、ジェーンは強い危機感を感じていました。

表面的には、新しい幹線道路を建設することはニューヨークのために良いことのように思われましたが、実際には、多くの独特な地域社会が破壊されつつありました。

ニューヨークはその特徴を失いつつありました。

ジェーンは、破壊を止めるために何かしなければならないと感じました。

の話は、ジェーンが彼女が愛する都市を救うために、どのように戦ったかを私たちに教えてくれます。

Part2(p140)

ェーンは、グリニッチ・ヴィレッジと呼ばれるニューヨークのある地域に住んでいました。

グリニッチ・ヴィレッジは若いミュージシャン、詩人、そして芸術家たちの間で人気のある地域でした。

そこは「異なる経歴や仕事や国籍を持つ人々であふれて」いたので、ジェーンはこの地域社会が大好きでした。

若い人も年を取った人も、話をしたり働いたり遊んだりしながら、常に路上にいました。

ジェーンにとって、この活動の混合物は、素晴らしい「歩道のバレエ」を見ているようなものでした。

かしある日、ジェーンは彼女の最愛の地域が大きな脅威に直面していることを知りました。

ロバート・モーゼスという市の有力な役人が、グリニッチ・ヴィレッジにある人気の公園のワシントンスクエアパークを破壊することを計画していたのです。

彼は自動車がもっと容易に通れるように、公園を横断する幹線道路を建設しようと計画していました。

シントンスクエアパークは、美しい大理石のアーチ門と噴水があるので、長い間グリニッチビレッジの中心となっていました。

それは、多くの母親と子供たち、そして芸術家たちにとってお気に入りの集合場所でした。

もしモーゼスがそこを通る幹線道路を建設したら、この活気あふれる公共の場所は失われてしまうでしょう。

ジェーンはそんなことが起きるのを許すことができませんでした。

Part3(p142-p143)

ーゼスは 1952年に幹線道路計画を公式に発表しました。

幹線道路のことを知るとすぐに、シャーリー・ヘイズという名前の4人の子供の母親が、急いで抗議委員会を創設しました。

ジェーンも加わり、彼女たちはモーゼスに反対して立ち上がりました。

ェーンと委員会の他のメンバーは、ワシントンスクエアパークの近くにテーブルを設置しました。

彼女たちは、訪れる人たちに幹線道路の建設をやめさせるための請願書に署名するよう依頼しました。

ベビーカーと共に大勢の母親たちが公園に集結し、他の母親たちに新しい幹線道路はが本当は自分たちのために必要なのかどうかを尋ねました。

小さな子供たちは「広場を救え!」と書いてある抗議ポスターを貼り出しました。

親と共に地域集会に加わった子供たちさえいました。

さな草の根の活動として始まったものが組織的な闘争に変わりました。

一方の側には、公園を守りたい母親たちのグループがいました。

もう一方の側には有力者のモーゼスがいて、彼は、そのような犠牲はニューヨークを再開発するのに必要だと信じていました。

Part4(p144-145)

ーゼスを含む多くの都市計画の専門家は、最新の幹線道路網と高層ビルが活気ある都市を建設する鍵であると信じていました。

幹線道路は自動車による輸送をより円滑にし、高層ビルはより多くの人々が混雑した都市で快適に暮らすことを可能にするだろう、と。

ェーンは違う考えでした。

グリニッチ・ヴィレッジに住んでいて、都市は路上の住民の間に豊かな交流があるとき最もうまく機能することに彼女は気づいていました。

これが健全な地域社会感[地域社会に対する認識]を生んだのです。

都市に活気をあふれさせたのは、住民たちであって、自動車ではありませんでした。

都市は、多種多様な人たちが歩道や公園で自由に散歩したり会ったりできるように建設されるべきだと、彼女は信じていました。

自動車と幹線道路の数を増やすことは、この種の人間的な交流を減らしてしまうでしょう。

ェーンは都市計画に関する正規の教育を全く受けていませんでした。

実際、彼女は大学に通ったことがありませんでした。

しかし、彼女には独自の考え方がありました。

彼女の独創的な見解は多くの人々の心をとらえ、エレノア・ルーズベルト前大統領夫人の支持さえも勝ち得たのです。

ついに1958年11月、ジェーンとモーゼスの間の6年間ものすさまじい闘争の後、ニューヨーク市はワシントンスクエアパークを車両通行止めにしました。

賀セレモニーでは、ジェーンの3歳半の娘ともう1人の女の子が、大きなリボンをアーチ門の開口部に交差させて結び、象徴的に公園を車両通行止めにしました。

ジェーンとその運動の他のメンバーたちが公園を救いました。

Part5(p146-147)

ェーンは2006年に亡くなりましたが、彼女の遺産は相変わらず強固に生き続けています。

モーゼスに対する勝利の後の1961年に出版された彼女の画期的な著書『アメリカ大都市の死と生』は、現代の都市計画に関する最も重要な本の 1 つであると今でも見なされています。

ェーンのアイデアもまた、ウォーキングツアー(徒歩旅行)という形で伝えられています。

毎年5月に世界中の100以上の都市で、地元住民が「ジェーンズ・ウォーク」と呼ばれる散歩の行事を開催しています。

その行事で住民たちは、街を歩き回って自分たちの近所を探検し、それについて話すのです。

ちょうど、ジェーンがそうするのが大好きだったように。

くの都市が、誤った都市計画が原因で破壊されるのを見てきたので、ジェーンは市民一人ひとりが自分たちの地域社会の建設にもっと参加するべきだと強く信じていました。

「計画立案者と建築家にはなすべき不可欠な貢献がありますが、市民にはもっとなすべき不可欠なもの(=貢献)があります。何といっても、それは彼らの都市なのですから」と彼女はかつて書いたことがあります。

ェーンは人々に、自分たちの都市についてもっと多くのことを知るために「外に出て歩く」ように強く勧めました。

その地域の何が素敵なのか。何が変えられるべきなのか。彼らが答えを探すときには自分自身の目を信じるよう、彼女は彼らをを励ましたのです。

ェーンの力強いメッセージは、自分たち独自のやり方で考えて行動するように人々を鼓舞し続けています。