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【ジーニアス3年】Lesson8/Paralympic Games【和訳】

このページではジーニアス・コミュニケーション英語3年/Leeson8【Paralympic Games】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【Genius3】Lesson8/Paralympic Games【和訳】

Part1

日、パラリンピックは世界の障害を持つ運動選手にとって一番大きな、多種目の競技を行うスポーツ大会です。

参加は160の国と地域に及び、筋力損傷者から視覚障害者まで10の分類にわたっています。

1960年のローマ大会の第1回夏季パラリンピックに参加した選手の数は、23の国からの約400人でした。

しかし、2012年のロンドン大会では20種目で4,000人以上の選手が競い合い、世界中のテレビ視聴者に見られました。

「パラリンピック」という名前は「~のそばに」を意味するギリシャ語の「パラ」から来ています。

この名前はオリンピックと同時に開催される競技大会ということを意味しています。

パラリンピックはいつもオリンピックと同じ年に開催されてきています。

また、1988年のパラリンピックソウル大会と1992年の冬季パラリンピックアルベールビル大会からはずっと、パラリンピックはオリンピックと同じ開催地で行われてきています。

2001年6月19日、国際オリンピック委員会(IOC)と国際パラリンピック委員会(IPC)の間で、将来もこの慣行を保証するという合意が調印されました。

2012年の招致プロセス以降は、オリンピックを開催するように選ばれた都市はパラリンピックも開催する義務を負うことになる予定です。

ラリンピックがわずか50年ちょっと前に、イギリスのエイルズベリにあるストーク・マンデヴィル病院で謙虚なスタートを切ったことを考えると驚きです。

障害を持つ人たちのための競技大会を作る一番最初の始まりは、第2次世界大戦までさかのぼります。

ルートヴィヒ・グットマンという名前のイギリス出身のある医師の努力までさかのぼります。

「障害者のためのスポーツの父」として知られるグットマン医師は、第2次世界大戦中に傷ついた人たちの生活の質を高めるためにスポーツ療法を使うことを強く提唱した人物でした。


Part2

ットマン医師は1899年ユダヤ人の両親のもとにドイツに生まれ、1923年に医師としての資格を取りました。

神経科を専攻し、自分の専門分野ですぐにトップの座に登りました。

10年以内に、グットマン医師はドイツで一番の脳外科医の1人として有名になっていました。

しかし、1930年代はドイツにいるユダヤの人たちに痛ましい時代をもたらしました。

ユダヤの人たちのうちの多くがナチ党員から逃れるのをお手伝いした後で、グットマン医師は祖国から足跡を歴史に残すことになる国(イギリス)へと逃げていきました。

1943年、イギリス政府はグットマン医師に戦争で傷ついた多数の退役軍人のためにエイルズベリにあるストーク・マンデヴィル病院に脊髄損傷の部署を設置するように依頼しました。

1944年2月1日、脊髄損傷を受けもつ診療科がオープンしました。

ットマン医師は次のように振り返りました。

「ストークに最初に着いたときには、脊髄損傷患者さんたちは絶望的な手足の不自由な人たちだと考えられていました。私にはこうした敗北主義的な姿勢が認められませんでした」

1次世界大戦で、グットマン医師は衛生兵でした。

兵士として参加できるほどの年齢に達していませんでした。

ある日、1人の患者さんが運ばれてきました。大きくて屈強な男の人で脊髄に損傷を持っていました。

衛生兵たちは病棟の端っこにこの患者さんを置きました。

みんなこの人の周りについたてを立て、あの人の痛みのある場所を治すために近づく必要は実際はないだろうと言っていました。

まるで数か月で死んでしまうかのようでした。グットマン医師の中で何かが反発しました。

られた資源と、経験不足の職員と、脊髄損傷の患者さんをリハビリするのは不可能だと支配的な態度を何とかしようとして、グットマン医師は自分が治療している元兵士の人たちを元気づけ、社会に復帰させてあげられる方法を模索しました。

しかし、成功は簡単にはやってきませんでした。

戦闘の現場から搬送されてくる陸海空軍の兵士たちの中には、ひどい状態にある人たちもいました。

脊髄の損傷だけではなく、化膿した床ずれ、腎臓感染などにもひどくおかされていました。


Part3

を引き延ばように設計されただけではなく、障害を持つ患者さんたちが精神的な問題を克服し、社会の役に立つ尊敬されるメンバーになるのに役立つようにも設計された新しい治療計画を、グットマン医師は作成しました。

スポーツは障害を持つ患者さんたちを元気づけて、残っている身体能力を最大限に活用して、とても必要とされる運動をさせてくれ、精神的な落ち着きを回復してくれるものだと、グットマン医師は信じていました。

体で行なうスポーツは患者さんたちに、特にグットマン医師が治療に当たっていた若くて、以前は活動的だった退役軍人たちに運動する意欲を起こさせる際に、驚くほど効果があるものだと、グットマン医師にはわかっていました。

ットマン医師のストーク・マンデヴィル病院で始められた最初のチームスポーツは車イスのポロでした。

障害のある患者さんたちは車イスに乗って、短くしたスティックを持って、パックの代わりに円盤を使って、このパックを打ちながら、誰もいない病室を行ったり来たりしました。

激しい競争の中で軽傷を負う選手が出た後で、ポロは、まったく同じように激しいスポーツですが、ダメージを受ける危険度のより低いバスケットボールに変更されました。

のプログラムの治療価値はすぐにはっきりとしました。

障害を持つ患者さんたちが力強さと協調性と自信を回復すると、病院の外の世界で定職を見つけ、住まいを見つけ始めたのでした。

1948年7月28日に重要なことが起こりました。

16人の体にマヒのある男女の元イギリス軍兵士たちがストークの草原でアーチェリーの競技会に参加しました。

これが今では毎年恒例の行事ストーク・マンデヴィル競技大会の最初でした。

ットマン医師は次のように語りました。

「あの日はまた、ロンドンで1948年のオリンピックの開会式に遭遇しました。この偶然の一致が私にある考えを与えました。将来を詳しく検討して、このストーク・マンデヴィル競技大会が障害を持つ人たちのオリンピックと同じ存在として世界的に有名になるときが来るだろうと予想しました。」

ットマン医師は、障害のある人たちの毎日の暮らしを改善するために精力的に働きました。

グットマン医師は1980年に亡くなりましたが、障害を持つ選手のためのスポーツというグットマン医師の抱いた理想像は今日も続いています。

障害を持つ選手たちにとってスポーツの価値は、リハビリのもたらす利益を越えてはるかに広がっているのは明らかです。

スポーツマンシップ、仲間意識、活動的なライフスタイルは、他の大切な良い点です。

障害を持つ競技者の運動の才能は世界的に認められるようになってきています。

まさにグットマン医師が意図していたようにです。


Part4

来を嘱望されている日本の陸上競技選手の1人中西麻耶まやさんは、高校時代に傑出したテニスの選手でした。

ご両親のアドバイスに反して、麻耶さんはスポーツでの夢を追い求め、大学を先延ばしにし、自活するために、結局ペンキ工場で働くことになりました。

しかし、21歳のときに、麻耶さんは事故で右ひざから下の脚を失いました。

故の後、麻耶さんはテニスコートに戻ろうと努力しましたが、以前のようにはいきませんでした。

同じレベルでプレーすることはできないだろうということは自分でもわかっていました。

しかし、それ以上に、場違いな感じを受けてしまいました。

かし、いろんな競技があります。

麻耶さんのような人はたくさんいて、手・脚を切断して失っている人のために特化したレースもありました。

麻耶さんは競技できました――競技に参加できることが麻耶さんを引っ張っていた原動力でしたから、麻耶さんはやってみることにしました。

2007年、麻耶さんはひざ下切断の競技者のための100mと200mで日本記録を破りました。

次の年、麻耶さんは北京パラリンピックの日本代表選手になりました。200m準決勝で日本記録を再び樹立しました。

かし、麻耶さんは本当はイライラしていました。

メダルを獲得するという目標を達成できなかったからです。

世界の舞台でいい結果を得るために、麻耶さんは海外で練習することに決めました。

サンディエゴにある全米トレーニングセンターに通いました。センターではオリンピックの選手もパラリンピックの選手も一緒に訓練を受けることは当然のことでした。

状況から刺激を受けながら、麻耶さんは、自分の障害は選手としての経歴を阻む邪魔にはならないと悟りました。

西選手は自分自身オリンピックの夢を抱いています。

実際に、6mをジャンプしたこともあると本人は言っています。

これは日本の女子チームのメンバーになるのに十分なものです。

チームのメンバーになることが麻耶さんの次の目標です。

「私たちが望むのはチームに加わりたいということだけです。私たちは選手なのです――私たちは障害を持っている選手なのではありません。私たちは皆さんに私たちのことをそのように考えてほしいと思っています」

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