このページではジーニアス・コミュニケーション英語3年/Leeson5【Practical Wisdom:What it Takes to Be Good at Work】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。
【Genius3】Lesson5/Practical Wisdom:What it Takes to Be Good at Work【和訳】
Part1
変に聞こえるかもしれませんが、どんな仕事でもみんな道徳的な仕事なのです。
仕事上手であるためには、君自身に徳が備わっていなくてはいけません。
アリストテレスは、次のように信じていました――徳が備わっているためには、ソフィア、すなわち、抽象的な叡智に加えて、フロネーシス、すなわち、実践的な知が必要だ。
1つの例から始めてみましょう。
病院の掃除係の人の職務規定を見てみると、病院の掃除係がこなす仕事の項目は、すべて大したことのないものです―床にモップをかけて、掃いて、ゴミ箱を空にして、棚を補充して、等々です。
しかし、1つ注目されるべきなのは、たとえ職務規定は長いリストになっているとしても、リストには他の人に関わる項目がただの一つもないということです。
掃除係の仕事は、病院で行うことができるのですから、完全に自動化された無人の工場でも行えるのはもちろんのことでしょう。
しかし、病院の掃除係の人が自分の仕事はどのようなものだと考えているのかを調べるために、心理学者が病院の掃除係に聞き取り調査をしたときに、心理学者は掃除係のマイクに会いました。
マイクは床にモップがけするのをやめたときの様子を心理学者に話しました。
患者さんのジョーンズさんがベッドから出て、少し運動をして、体力をつけるために、廊下をゆっくりと行ったり来たり歩くから、マイクはモップをかけなかったのです。
次に、心理学者はシャーリーンに会いました。
シャーリーンは上司の注意を無視して、訪問者用の待合室に掃除機をかけなかったときの様子を話しました。
毎日、1日中、待合室にいる家族が何人かいて、そのときたまたま、うたた寝をしていた家族がいたから、掃除機をかけなかったのです。
掃除係の人や他の職員のこうした行動は、みんなを少しいい気分にさせてくれるだけではありません。
実際に、患者さんへのお世話の質を向上させ、病院がうまく運営できるようにしてくれます。
Part2
すべての掃除係の人が、この2人のようなわけではありません。
しかし、この2人のような掃除係は、自分の仕事の職務規定が他の人について一言も書いてないにもかかわらず、親切、お世話、共感に関する、こういった種類の人との相互作用が、自分たちの仕事の本質的な部分だと考えています。
こうした掃除係は、他の人にとって正しいことをするという道徳的な意志を持っています。
さらにいいことに、「正しいことを行う」とはどういうことなのかを理解できる道徳的な技を持っています。
アリストテレスは「実践的な知は道徳的な意志と道徳的な技の組み合わさったものだ」と言いました。
掃除係の人が他の目的を行うために、仕事の義務をいつ無視すればいいのかを知っていたように、知恵のある人は、すべての規則に例外をいつ、どのようにして作ればいいのかを知っているものです。
一言でいうと、知恵のある人は、どのようにして改善すればいいのかを知っているのです。
現実の世界の問題は曖昧で、ハッキリしないことが結構あります。
状況はいつも変わっているのです。
知恵のある人は、、ジャズミュージシャンに似ています―譜面にある音符を使いながら、しかし、音符の周りで踊りつつ、身近にある状況と人々にうまく合った組み合わせを考え出すのです。
知恵のある人は、正しい目的を行うために、こうした道徳的な技を使う方法を知っています。
他の人を操作するためではなく、他の人に奉仕するためだということです。
最後に、もしかしたら一番大切なことかもしれませんが、知恵のある人は生まれつきではなく、形作られるのです。
知恵は経験に基づいています。
しかも、どのような経験でもいいというわけではありません。相手の人のことを知るようになる時間が必要です。
即興で行動し、新しいことをやってみて、時には失敗しても、失敗から何かを学ぶことが許されていることも必要です。
Part3
マイクやシャーリーンのような行動を取った掃除係の人は、自分の仕事を学んでできるようになるためには、多くの経験が必要だと言います。
床のモップがけや、ゴミ箱を空にする方法を学ぶためにではなく、どのようにして人を気遣えばいいのかを身につけるためです。
知恵のある掃除係になるには時間がかかるのです。
人は頭の良さを高く評価します。
ありがたいことに、知恵があるためには、頭がいい必要はありません。
困ったことに、知恵がなければ、頭の良さは十分ではありません。
知恵のない頭の良さは、本人や他の人をトラブルに巻き込む可能性があります。
もう1つの例は、レモネードに関するものです。
パパが7歳の子供を野球場に連れて行きました。
男の子はレモネードをおねだりし、パパは買いに行きました。
お店にあったのは、マイクのアルコール入りレモネードだけでした。
5%のアルコール入りでした。
パパはこの事実に気づいてはいませんでした。
警備員は、男の子がアルコールの入ったレモネードを飲んでいるのを見て、警察を呼びました。
警察官は救急車を呼び、救急車は野球場に急行し、子供を病院にサッと連れ去りました。
その子の血液からはアルコールはまったく検出されませんでした。
病院はパパに子供を引き渡す準備をしていました。
警察がダメだと言いました。
子供は3日間、預かってくれる人の家に送られました。
それから裁判官がこう裁定しました―パパが家を出て行った場合に限って、男の子は家に帰される。
家族が再会したのは、2週間後のことでした。
警察も、福祉関係の職員も、判事も、みんな同じことを言いました―「こうするのは嫌だけれど、手続きには従わなければいけないのです」
Part4
ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)でこの話をしたジャーナリストは、「規則と手続きがダメなのかもしれない、しかし規則と手続きは考える手間を省いてくれる」と言いました。
公平に言えば、規則は押しつけられることが結構あります。
以前の職員が手ぬるくて、ある子供が虐待する家庭に帰るのを許したことがあるからです。
悪くなったものを修復するには、この便利な道具、すなわち規則に手を伸ばすものです。
よりよい規則が欲しいと、より多くの規則が欲しくなるものです。
本当は、規則は仕事をこなすのには十分ではありません。
あの2人の掃除係がしたことを、掃除係の人にしてもらう規則を、どうやって書けるというのでしょうか?
ますますたくさん規則に頼るにつれて、短期的には規則が事態を改善してくれるのですが、長い目で見ると規則は事態をもっと悪くするということが、起きてしまいます。
即興で何かを行うチャンスと、即興から何かを学ぶチャンスを私たちから奪うことになる規則に頼りすぎると、道徳的な技はなくなってしまいます。
意図していなくても、規則に訴えることで、知恵と戦っているのです。
確かに規則は必要です。
ほとんどのジャズミュージシャンは、譜面に音符が必要です。
政治家、官僚、経営者には、さらに多くの規則が必要です。
しかし、規則が多すぎると、優秀なジャズミュージシャンは、即興演奏ができなくなります。
結果的に、才能を失い、演奏を完全にやめてしまいます。
掃除係の人の仕事と同じように、すべての仕事は、道義的責任上、正当に扱わなければいけない他の人との相互作用に関係しているということを覚えておくようにしましょう。
そして、人を正しく扱うためには、特定の状況で何が正しいのかを知っておくためには、フロネーシス、すなわち、実践的な知が必要だということを覚えておくようにしましょう。