エレメント 2年 和訳[337]

【エレメント2年】Lesson9/The Vancouver Asahi【和訳】

このページではエレメント・コミュニケーション英語2年/Leeson9【The Vancouver Asahi】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【ELEMENT2】Lesson9/The Vancouver Asahi【和訳】

Paragraph1

日本人は1870年代にカナダに移住し始めた。

彼らはより良い生活を求めてカナダにやって来たが、日系カナダ人、日系は偏見と差別に直面した。

「おい、見てみろ!これは人間の食べるものじゃない。猫のえさだ!」と言うカナダ人もいた。

日本食は味が悪いと考えられていたのだ。

その上、日本から来た人々は、ほかのカナダ人よりも給料が安かった。

しかし最悪なのは、日系労働者たちがそのようなひどい労働条件を受け入れたことだった。

受け取る報酬が安いにもかかわらず、日系たちがより懸命に、より長く働けば、白人たちは日系が彼らの仕事を盗んでいると言った。

白人たちは強硬に日系たちを締め出そうとした。

白人たちは暴動を起こし始め、「ジャップを捕まえよう!ジャップは敵だ!」と叫び始めた。

日系とほかのカナダ人との争いはますます深刻になっていった。



Paragraph2

つらい時間を過ごしながらも、日系たちが最も楽しんでいたのは野球をすることだった。

1914年、彼らは日系野球チーム、バンクーバー朝日を結成した。

いったん試合が始まれば、肌の色やどこで生まれたかは意味がなくなった。

朝日が試合に勝ったときには、選手たちは日系コミュニティにとってのヒーローになった。

Paragraph3

朝日は最も強い日系野球チームになった。

彼らが(バンクーバーの)ターミナルリーグに参加するよう招かれたとき、それはカナダ西海岸で行われる最強のアマチュアリーグと考えられており、朝日の選手たちはやる気満々だった。

Paragraph4

高い期待とは裏腹に、ターミナルリーグでの朝日の成績は良いものではなかった。

「最悪中の最悪。朝日はまた最下位」と新聞は記事を載せた。

朝日に身体能力が欠けているのは疑いようがなかった。

その成績は、チームを立て直す必要があることを示していた。



Paragraph5

チームを立て直し、再び軌道に乗せられるかは、チームの3番目の監督であるハリー宮崎にかかっていた。

「われわれのほうが体が小さいが、どうすれば最強の白人チームと張り合うほどにチームを強くすることができるだろうか?」とハリーは考えた。

そこでハリーは、協調性、技術、素早さ、勤勉さという日系の特徴を最大限利用することにした。

彼が最初にしたことは、守備を強くすることだった。

次が、バントと盗塁に集中することだった。

新しい戦略のおかげで、野球はよく考える人の試合として行われ、この方法は「頭脳野球」として知られるようになった。

Paragraph6

さらに、野球場は白人と日系コミュニティの真のコミュニケーションが可能な数少ない場所の1つであるとハリーは信じていた。

ハリーは、どのような荒っぽいプレーに対しても選手たちが審判に抗議することを固く禁じた。

「何が起こっても、恥ずべき試合を行わないこと」と彼は忠告した。

いったん選手たちが球場に出ると、彼らは「勇敢に公明正大にプレー」しなければならなかった。

Paragraph7

朝日は公正にプレーしながら勝利を重ねていった。

同時に、白人チームの荒っぽいプレーが朝日の得点を阻んだ。

しかし、朝日は決してやり返さなかった。

朝日のフェアプレーは疑いようがなかった。

「大和魂!」という声援が日系の観衆からしばしば聞こえてきた。

ある白人男性がその声援の意味をたずねると、日系ファンは誇らしげに「フェアプレーの精神のことだ!」と言った。



Paragraph8

最終的に、白人たちはそのチームを応援するようになった。

白人ファンの中には、朝日が守備についているときに「ダブルプレー! ダブルプレー!」と叫びながら応援する人もいたものだった。

彼らは、朝日ならではの絵に描いたようなダブルプレーの1つを見たがっていたのだ。

白人ファンにとって、朝日のプレースタイルは魔法のようだった。

日系にとって、朝日は不可能なことを可能にしてくれた。

朝日は何度も優勝した。しかし、彼らの幸福は長くは続かなかった。

Paragraph9

太平洋戦争が日系の生活を変えた。

戦争から生じた敵意が差別を生み出した。

彼らは敵と呼ばれ、収容所に送られた。

朝日が1つの場所に集まることは二度となかった。

Paragraph10

収容所での生活は居心地が悪く、不便なものだった。

冬の間はマイナス30度以下にまで気温が下がることもあった。

収容所近くの町の人々は日本人を見たことがなかったので、日系を恐れていた。



Paragraph11

しかし朝日について知っていて、朝日の選手に試合を申し込んでくる人もいた。

少しずつ、日系と町の住民との相互理解が進み始めた。

「日本人だからというだけで、なぜ彼らはこのように扱われているのだろう?」と町の人々は疑問に思い始めた。

野球には憎悪を中和する力があったのだ。

Paragraph12

朝日の大多数の選手はカナダに残って、戦後はカナダの地区野球の発展に貢献した。

2003年にカナダ野球殿堂が朝日を殿堂入りさせることを決めた。

式典の司会者が「バンクーバー朝日!」と発表すると、5人の日系カナダ人の老人男性が現れ、聴衆は彼らに総立ちで拍手喝采を送った。

式典で、野球殿堂の最高責任者は次のことばから始めた。

「バンクーバー朝日の誇りに敬意が払われた。彼らは純粋なスポーツマン精神をもって、ファンと白人チームを魅了したのだ」

そのチームは、もはや日系だけの伝説ではなかった。

彼らはカナダの伝説になったのだ。