このページではエレメント・コミュニケーション英語2年/Leeson6【Caddy for Life】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。
【ELEMENT2】Lesson6/Caddy for Life【和訳】
Contents
Paragraph1
ブルース・エドワーズはゴルフ界ではよく知られていました。
しかし、彼はゴルファーではなく、49歳で亡くなったキャディーでした。
Paragraph2
1973年に高校を卒業したブルースは、ゴルフや大学に行くよりもキャディーに興味がありました。
ある日、彼は後に偉大なゴルファーになる若いトム・ワトソンに会いました。
彼はワトソンのキャディーの仕事をさせてほしいと頼み、そしてそれは彼らの長い関係の始まりでした。
Paragraph3
当時、キャディーは選手のゴルフバッグを運ぶだけでした。
ブルースは違っていました。
彼は毎朝コースを歩いてコースの状態とどの場所からもホールまでの距離を選手に伝えることができました。
Paragraph4
また、ブルースは決して反対することを恐れず、ワトソンはそれを受け入れました。
ある日、ワトソンはグリーンに直接打つのではなく、安全なショートショットを打ちたがっていました。
しかし、ブルースは怒って「そうする必要はありません。あなたはここからグリーンへこのボールを打つことができます。」
ワトソンはしばらく考えて、グリーンの右にボールを打ちました。
Paragraph5
ブルースは彼のキャディーであり、ワトソンは多くの勝利を収めていました。
しかし、この名声を高めた年の後、ワトソンは家族と時間を過ごして遊ぶことを望んでいました。
ある日、ワトソンは良い機会があればブルースに他の人のために働くことを勧めました。
ワトソンがそう言っているのは悲しいことであり、ブルースにとってもそれを聞くのは同じようなものでした。
そのことをよく考えた後、彼は世界でナンバーワンの選手であるグレッグ・ノーマンのために働くことに決めました。
Paragraph6
1日目から、ノーマンとの生活は全く違っていました。
彼は世界中でゴルフをし、コースをデザインし、プライベートジェット機でスポンサーに会いました。
ブルースはたくさんのお金を得ましたが、それは、どうしても彼のボスであり彼の親密な友人であったワトソンといるのと同じとはいきませんでした。
ワトソンも同じように感じていたので、ブルースは3年の別離を経て、1992年にワトソンのもとへ戻りました。
Paragraph7
彼らは再び一緒にプレーするのを楽しんでいました。
しかし2002年になって、ブルースに問題が起こりました。
そのころ彼の話し方は不明瞭になり、せきを多くし始め、左手でうまく物をつかめなくなったのです。
そのとき彼は医療保険に入っていなかったので、ワトソンは彼に、すぐにでも医師に診てもらって、自分に請求書を送るよう彼ら(病院側)に伝えろと言いました。
Paragraph8
意外なことに、ブルースはALS(筋萎縮性側索硬化症)と呼ばれる病気だと診断されました。
この病気は体中の筋肉を徐々に破壊するもので、治療法はわかっていません。
医師は彼に、わずか数年の余命だと言いました。
彼の健康状態は悪化し始め、人々の目には彼がやせ細り弱っていくのがわかりました。
このような状況でも、ブルースはワトソンのためにキャディーをやり続けることを望みました。
「彼は何が起こっても、精神的にも感情的にも決して屈服しない」と当時ワトソンは言いました。
Paragraph9
2003年、ワトソンとブルースは全米オープンに現れ、そこで彼らは世界の注目を集めました。
53歳のかつての大会優勝者は、首位まであと1打差でした。
ブルースはほとんど歩けませんでしたが、キャディーとして彼に同行していました。
そこにいるだれもがブルースの話について知っていて、ほかの155人の選手たちは全員脇役でした。
Paragraph10
ワトソンとブルースは、これが一緒に注目を浴びる最後の時間かもしれないとわかっていました。
彼らがティーグラウンドに来たときはいつでも、観客全員が「ブルース、ブルース!」と彼の名前を呼び始めました。
それは彼の時間であり、彼ら2人の時間でした。
Paragraph11
ワトソンは優勝できませんでしたが、すべてのテレビ・インタビューでブルースについて話し、ALSの研究をさらに進めるための基金の切実な必要性を訴えました。
当時ブルースはテレビでこう言いました。
「トム・ワトソンのような友人を持てたのはすばらしいことです。ぼくがどんなにラッキーか言い表せません。」
彼は後にワトソンにもこう言いました。
「トム、ぼくは全部やりきったよ。」