エレメント 1年 和訳[339]

【エレメント1年】Lesson4/Twice Bombed, Twice Survived【和訳】

このページではエレメント・コミュニケーション英語1年/Leeson4【Twice Bombed, Twice Survived】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【ELEMENT1】Lesson4/Twice Bombed, Twice Survived【和訳】

Part1

1

1945年8月6日、山口つとむさんは幸福な気持ちで起きました。

それは彼の広島で過ごす最後の日でした。

彼は翌日には、長崎の本社と家族のもとへ帰ることになっていました。

彼は3ヶ月かけて広島の会社で大きな船を設計していました。

2

業務の最終日、彼は会社へ行くバスに乗ったが、印鑑という、日本人が書類に捺印するのに使う印を忘れたことに気がつきました。

彼はそれを取りに社宅へ引き返すと、今度は電車で会社に向かいました。

3

彼が駅から会社へと歩いていると、1機の爆撃機が飛んできて、2つの白いパラシュートが落ちてくるのが見えました。

突然、すさまじい閃光が走り、彼は吹き飛ばされました。



Part2

4

それは原子爆弾(原爆)でした。

アメリカの爆撃機エノラ・ゲイは、山口さんからわずか3キロ離れた、広島の中心地付近に原子爆弾を落としました。

彼はしばらく路上で呆然と横たわっていました。

(意識がもうろうとする状態から)回復すると、顔の左側と左腕にひどい痛みを覚えました。

5

空を見上げると、大きなキノコ雲が空高く立ち昇っているのが見えました。

彼は、可能な限り早くそこから逃げなければならないと感じました。

野原にある大木のもとにたどり着くと、彼は辺りを見回しました。

ほとんどの家が破壊されたことに彼は気づきました。

そのようなものを、彼はそれまで見たことがありませんでした。

6

もうすぐ正午になろうというところで、彼は同僚に会うために、会社へと歩き続け
ることに決めました。

到着すると、被害を受けた多くの家屋を目の当たりにしましたが、生存者が出てきて肩を抱いてくれました。

Part3

7

山口さんは、防空壕で一晩過ごした後、生存者のための電車が己斐こい駅から長崎に向
けて午後に出発することを知らされました。

彼は市の反対側にある駅まで歩き、なんとか席を確保しました。

翌日、電車が長崎に着くと、彼は病院で火傷の手当てを受けました。

8

8月9日に、彼は長崎の会社に戻りました。

顔の左側と左腕には、何重にも包帯が巻かれていました。

同僚が全員やって来て、広島で起こった恐ろしいことについて聞きたがりました。

山口さんが、たった1個の爆弾で広島が壊滅したと彼らに話すと、上司はそんなことはありえないと言いました。

9

突然、まぶしい閃光が部屋を満たしました。

山口さんは長崎に生きて帰ってきたものの、そこで2個目の原子爆弾を経験したのでした。



Part4

10

山口さんは、二度の原爆攻撃を生き延びました。

ほかの多くの生存者と同様に、彼は人生の大半を苦悩の中で過ごしました。

しかし、息子が60歳で、原爆症によるがんで亡くなってから、山口さんは自らのつらい経験について人前で語り始めました。

そうすることが自分の義務だと思ったのです。

彼は自分の経験についての本を書きました。

生存者についての映画に出ました。

90歳のとき、彼はニューヨークにある国際連合で、次のような演説も行いました。

「私はあの爆弾を2度経験しました。3度目がないように心から願っています。」

11

彼はまた、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがプラハで演説し、核兵器のない平和のために働くことを約束すると、オバマあての手紙を書きました。

その手紙には「プラハでのあなたの演説にとても感動いたしました。私も残りの人生を、核兵器を持つのをやめるよう世界に訴えることに費やそうと思います。」と書かれていました。

12

山口さんはかつて、未来に関して何か希望を感じるかとたずねられたことがありました。

しばらくしてから彼はこう言いました。「私は未来に希望を持っています。愛と人間を信じ
ていますから。」

13

また彼は、最後の年に「私は義務を果たしました。」とも言いました。

2週間後、93歳で、山口さんは長崎で静かに息を引き取りました。

彼の願いは私たちみんなの中に残っています。