このページでは高校クラウン・コミュニケーション英語3年/Leeson9【What’s Not for Sale?】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。
【CROWN3】Lesson9/What’s Not for Sale?【和訳】
Contents
Before You Read
マイケル・サンデルさんはハーバード大学の教授です。1980年から、政治哲学を教えています。サンデル教授の正義に関する講座は、ハーバードで一番人気のある講義の1つです。15000人以上の学生がこの講義を履修してきています。 この講座はテレビの講義シリーズになりました。2010年、日本で放送されると、マイケル・サンデル教授は一夜にして大評判となりました。ニューヨークタイムズはサンデル教授をアジアの「ロックスター」と呼びました。
サンデル教授の本『正義:なすべき正しいこととは何か?』は、政治哲学の大問題と現代の一番難しい課題を関連づけています。もっと新しい本『お金では買えないもの:市場の道義的限界』は『正義』で概要が述べられている道徳的信念を21世紀の市場経済に応用しました。
Section1
私たちはハーバード大学の教室にいます。
サンデル教授がゼミの学部生と向かい合っています。
今日の討論はクロサイを絶滅から救うための市場計画についてです。
2004年、南アフリカ政府は、牧場主がクロサイを育て、限られた数のクロサイを撃ち殺す機会を裕福なハンターに売ることを許す法律を可決しました。
ハンターはクロサイ1頭を殺すのに15万ドルもの大金を嫌がらずに支払って、牧場主は繁盛し、クロサイの個体数は増え始めてきています。
サンデル教授は問います。
ニューヨーク出身の4年生アリス・ワンは、こうした市場原理を使った解決策に反対します。
彼女が言うには、その理由は、この制度が「クロサイたちが生活し、生存するという元々の目的を見失っているからです」
イギリス出身の4年生イタ・ケトルバローが議論を新たな段階に持って行きます。
サンデル教授は、クロサイは本当は野生ではないというアリス・ワンの議論を振り返ります。
Section2
マイケル・サンデル教授は、政治哲学が経済学と交差する様子に興味を持っています。
サンデル教授の新しい本は、『お金では買えないもの:市場の道義的限界』と呼ばれています。
最近の雑誌の記事で、サンデル教授は市場と「市場価値」について論じました。
「私たちは、ほとんどすべてのものを売ったり買ったりできる時代に暮らしています。
過去30年以上にわたって、市場と市場価値が今まで以上に、私たちの生活を支配するようになってきています」
「冷戦が終わって、市場と市場価値は、モノの製造と販売を組織化する選ばれた方法になりました。
そして、市場と市場価値は、お金を儲けることにとても成功してもいました。
しかし、世界中でますます多くの国が、自国の経済運営において市場原理をちょうど採用しているときに、何か他のことが起こっていました。
市場価値は社会生活でますます大きな役割を演じるようになっていきました。
今日では、市場価値のシステムは、もはやモノだけに当てはまるのではありません。
市場価値は生活全体を支配し始めてきています」
「今日、私たちが市場を信頼しているかどうかが、疑わしくなっています。
2008年の金融危機は、市場が道徳から切り離されてきている、そして、私たちがどうにかして再び市場と道徳の2つを結びつける必要があるという広範囲にわたる感覚を起こさせました。
しかし、このことが何を意味するのか、あるいは、私たちがどのようにして取り組むべきなのかは明らかではありません。」
「市場の思潮の中心を占めていた道徳上の欠点は、あまりにたくさんの危険を冒しすぎることにつながった貪欲さだったと主張する人もいます。
そういう人たちの主張は解決策は貪欲さを減らし、銀行家にもっと大きな責任を要求し、類似した危機が再び起こるのを防ぐために新しい法律を可決することだというものです。」
「貪欲さが金融危機で一役買ったというのは確かに本当ですが、その一方で、もっと大きい何かが問題になっていました。
過去30年の間に起こった一番大きな変化は、貪欲さが増えたことではありませんでした。
一番大きな変化は、伝統的に市場に組み込まれていなかった考えによって支配されていた生活の領域にまで、市場と市場価値が入り込んできたことだったのです。
こうした状況を正すために、貪欲さに反対する議論をする以上のことをする必要があります。
市場は何に属しているのか―市場は何に属してはいないのか、に関する国民的議論を繰り広げる必要があります。」
Section3
「例えば、利益追求のために運営される組織が増えることを考えてみましょう。
そのリストは、学校、病院、刑務所を現在、含んでいます。軍事作戦さえ民間企業に任されています。
また、広告が、スクールバスから学校の食堂まで、公立の学校の中にも入り込んで来ている状況と、公園や公共の場所への「命名権」を売っている状況も考えてみましょう。」
「健康、教育、みんなの安全、国家安全保障、刑事裁判、環境保護、レクリエーション、および、その他の社会的なモノを割り当てるために市場をこのようなカタチで利用することは、30年前にはほとんど知られていませんでした。
今日、私たちは、こうした利用方法をだいたいは当然のことだと考えています。」
「すべてのモノが売り買いできる社会に向かって動いているということが、なぜ気がかりなのでしょうか?
理由は2つあります。1つは不平等に関するもので、もう1つは堕落に関するものです。
まず最初に、不平等について考えてみましょう。
すべてが売りモノの社会では、お金持ちではない人にとって、生活はもっと厳しいものになります。
お金がますますたくさんのモノを買うことができればできるほど、豊かさが、あるいは豊かさが不足していることが、ますます大切になります。
裕福であることの唯一の良い点がボートや、スポーツカーや、高価な休暇を買うゆとりの能力であれば、収入と富の不平等は、今日ほど大きな問題にはなっていなかったことでしょう。
しかし、お金でますます多くのモノを買えるようになってくるにつれて、収入と富の分配はもっと大切になっています。」
「すべてのモノを売りに出すべきではない第2の理由は、説明するのがもっと難しいものです。
それは不平等と公正さについてではなく、市場が持っている腐敗している影響に関するものです。
暮らしの中のよいことに価格をつけることは、そのものを堕落させる可能性があります。
それは市場がモノを割り当てるだけでなく、交換される予定のモノに対するある特定の態度を表し、推し進めてもいるからです。
子供にお金を払って本を読ませるということは、子供たちにより多くの本を読ませるかもしれませんが、子供たちに読書を喜びと成長の源泉というよりも、むしろ作業と見なすように教え込むことにもなるかもしれません。
自国の戦争をするために外国人を雇うことは、自国民の命を救うかもしれませんが、同時に、市民であることの意味を腐敗させるかもしれません。」
「市場は交換予定のモノに影響を及ぼさないと考える経済学者が結構います。
しかし、これは偽りです。市場は強い影響を与えます。
気を使う価値があるけれど、市場に含まれてはいない価値を、市場価値は締め出しすことが時々あります。」
Section4
「特定のモノが売り買いされてもよいと判断するとき、私たちはそのモノを商品として扱ってもいいと決めていることになります。
しかし、すべてのモノがこのような方法できちんと値段がつけられるというわけではありません。
一番明らかな例は人間です。
人間をせりにかけて、売り買いされる商品として扱ったから、奴隷制度はひどいものだったのです。
そのような扱い方は、人間を尊厳と尊敬に値する人として評価することができません。
こうした扱い方は、人間をお金儲けの道具と使用の対象と見なしています。」
「養子縁組の手続きがどんなに難しいとしても、あるいは、待ちこがれている将来の親たちがどんなに喜んでいたとしても、子供たちが売り買いされるのは許せません。
子供たちは、消費財としてでなく、愛と世話に値する存在として適切に見なされています。」
「あるいは、市民であることの権利と義務を考えてみましょう。
たとえ誰か他の人が市民の一票を買いたがっていたとしても、私たちは市民が自分の票を売るのを許しません。
なぜでしょうか?
市民の義務は私有財産でなく、みんなの責任だと信じているからです。
みんなの責任を売ることは、間違ったカタチでみんなの責任を評価することになります。」
「人生にある良いもののうちのいくつかは、商品に変えられてしまうと、堕落します。
ですから、市場が何に属しているのか、そして、市場は何から離れていなければいけないのかを決めるために、私たちは今問題になっているモノ、すなわち、健康、教育、家庭生活、自然、芸術、それと市民の義務を評価する方法を決めなければいけません。
こうしたモノは単に経済の問題ではなく、道徳と政治の問題です。
こうした問いに答えるために、私たちは、一つひとつ慎重に、こうしたモノの道徳的な意味と、こうしたモノを評価する適切な方法について話し合わなければいけません。」
ハーバードの教室に戻ってみましょう。
サンデル教授は、今日の「正義」の講義の結論に入ろうとしています。
サンデル教授は、道徳的な問題を提起し、学生が解決策を見つけるのに苦労しているとき、根気よく聞き続けています。
サンデル教授は、自分自身の考えを議論の中に入れません。
学生は、自分たち自身の道徳哲学を切り開かなければいけません。
サンデル教授は、次のように説明します。
「道徳哲学は物語です。そして、諸君は道徳哲学がどこにつながって行くのか知りません。
諸君が知っているものは、この物語が自分についてのものだということです」
学生チェルシー・リンクはこう言います。
「『正義』は、1度だけではなく何回も、自分の考えを変えても心地よいと感じる、ハーバードでたった一つの講義です。
私は知らないことが不快に感じられる場所に住まなければいけないのが本当に、本当に、本当に好きなんです」
Optional Reading『What Would You Do?』和訳
マイケル・サンデルさんの教え方は、正邪の観念を強制的に調べる倫理的ジレンマを学生たちに提起することです。
倫理的ジレンマは2つの可能なものの間の選択を迫ります。どちらも悪いように思えるかもしれないものです。たいてい絶対的に正しい答えも、絶対に間違っている答えも存在しません。選ぶ可能性のあるものは、選ぶ人の全体的な倫理的な考えを反映することになるでしょう。一番有名な倫理的ジレンマのうちの1つが「路面電車のジレンマ」です。
君は今、路面電車を運転しています。路面電車はカーブにさしかかっています。5人の作業員が線路を補修しているのが目に入ります。線路はその地点で谷を通り抜けていて、両側は険しいのです。5人の作業員をひいてしまうのを避けるためには、路面電車をすぐに止めなければいけません。ブレーキを踏みましたが、ききません。突然、右に入る線路の待避線が見えてきます。君はスイッチを押して、待避線に路面電車を入れることができ、したがって、真っ直ぐ前の線路上にいる5人の作業員を救うことができます。しかし、待避線の上に1人の作業員がいるのを見かけます。前方の5人の作業員とちょうど同じように、待避線にいる作業員も間に合って線路から避難して自分自身を救うことはできません(→待避線にいる作業員もうまく逃げて助かることはできません)。もし待避線に入れば、君は1人の人を殺すことになります。
もし君が路面電車の運転手だったら、どうするでしょうか? 2つの選択肢しかありません―何もしないのか、スイッチを押すのかです。行動を起こしても、起こさなくても、誰かが死ぬことになります。
もし何もしなければ、事故が起こって5人が死ぬでしょう。もしスイッチを押せば、事故は避けられるでしょうが、そうすることで1人が死ぬ原因を作ることになるでしょう。
故意に他の人の命を奪うことは一体、正当化できるのでしょうか?もし5人の命を救うために1人の命を奪わないのであれば、50人を救うためだったら1人の命を奪うでしょうか?500人ではどうでしょうか?5000人では?
正しい行いとは何なのでしょうか?