旧CROWN 3年 和訳[305]

【クラウン3年】Lesson6/Only a Camera Lens between Us【和訳】

このページでは高校クラウン・コミュニケーション英語3年/Leeson6【Only a Camera Lens between Us】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

2019年に改定された教科書では「Lesson6」の内容です。
改定前の教科書では「Lesson5」の内容です。

【CROWN3】Lesson6/Only a Camera Lens between Us【和訳】

Before You Read
20世紀は悲惨な戦争の時代でした。何百万もの人が命を失いました。私たちは今、21世紀にいます。21世紀が平和と安定の時代であることを願っています。しかし、世界のいくつかの場所では、紛争に次ぐ紛争に見舞われてきています。

こうした紛争のほとんどは、軍人と、たいていは少年兵を含む民兵によって、小火器を使って戦われています。こうした紛争が終わると、社会に復帰する必要のある何十万人もの兵士がいるかもしれませんし、集められて破壊される必要のある数知れない武器が存在するかもしれません。これは、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)の専門家の仕事です。

瀬谷せやルミ子さんはDDRの専門家です。

Section1

供の頃、瀬谷さんはいつも「名もないその他大勢」にひかれていました。

心の中では、外国はとても遠くにあるように思われ、自分はもちろん「なじみのない」もののように思えていました。

瀬谷さんは地図帳を開いてアフリカを見つけたときには、とても興奮しました。

谷さんが高校生のとき、ルワンダの人たちのための難民キャンプで死にかけている母親と小さな子供の写真を見て、ショックを受けました。

自分にこう尋ねました「おやつを食べながら写真を眺め、ここ日本で私は何をしているんだろう?私とこの親子の間にはカメラのレンズしかないのに、日本での私の暮らしとこの親子の暮らしの間にはとても重大な違いがある」と考えました。

もしその気になれば、自分の力で状況を変えられる国に住んでいました。

それに反して、写真の難民たちは自らの苦しい立場を受け入れないわけにはいかなかったのです。

学生のとき、瀬谷さんは世界の紛争について読み始めました。

専門家と話をして、ルワンダを訪れるためにパートで稼いだお金を貯めました。

1997年、大学3年のときに、夢が実現しました。

瀬谷さんはルワンダを訪れました。多数派のフツ族と少数派のツチ族の間の厳しい紛争によって打ちのめされていたルワンダの人たちの何か役に立てるかもしれないと思っていました。

紛争中に80万から100万人の人が約3か月の間に殺害され、200万人が難民キャンプに逃げ込みました。

量虐殺を生き抜いた家族のところに滞在中、瀬谷さんは何が起こったのかを突きとめようと努力しました。

しかし、ほとんどの人は沈黙を守るだけでした。

この人たちのトラウマは、まだ癒されてはいなかったのです。

そして、部外者に自分たちの本当の気持ちをあらわにする気にはなれなかったのです。

瀬谷さんは、自分はこの人たちの役に立てないんだと感じました。

自分には技術も、知識も、経験もないと悟りました。

こうしたものすべてが、ルワンダで出会ったような人たちの問題を解決するのに協力するためには、絶対に必要です。



Section2

学4年のときに、大学院での研究のためにイギリスに行く計画を立てました。

紛争解決の分野での専門領域を絞りこまなければいけないとわかっていました。

本を読んだり、国際組織やNGOに関する情報をネットから集めたりすることに図書館で時間を費やしました。

3か月たっても、情報をあまりにたくさん吸収しすぎて、何を専門にすればいいのか決められませんでした。

の時、突然、次の文が瀬谷さんの目に飛び込んできました「紛争地域は元兵士と少年兵をどのようにして社会に復帰させればよいのかという問題に、今直面している」

これだ!と瀬谷さんは思いました。

1999年、イギリスで瀬谷さんは大学院での研究を始めました。

大学院生の間に、瀬谷さんは日本のNGOからルワンダで活動してほしいと依頼されました。

瀬谷さんの任務の一部は、ルワンダの首都のキガリにNGOの事務所を開設することと、紛争でご主人を亡くした女性に職業訓練を提供するプロジェクトを立ち上げることでした。

瀬谷さんは、20代と30代のシングルマザーがほとんどを占める10人の訓練生を選びました。

そして、この訓練生たちに自立できるように裁縫と洋裁の技術を教えました。

のプロジェクトがほぼ終わる頃に、瀬谷さんはシエラレオネで進行中だったDDRプロジェクトのうわさを耳にしました。

実際のDDRの進め方を自分の目で観察するために現地に行くことにしました。

しかし、問題がありました。現地の状況を理解していて、何が問題なのか詳しく知っている人たちを見つけることにどのようにすれば取りかかれるのでしょうか?

もしこの状況をうまく切り抜けられなければ、紛争解決の専門家として活動するという夢を見るべきでさえないのです。

瀬谷さんは、くじけませんでした。

何とか連絡を取って、戦争の被害者のためのキャンプと元少年兵たちのためのケアセンターを訪れることができました。

DDRプロジェクトの最高責任者の一人にインタビューをすることもできました。

2001年に大学院での研究を終え、瀬谷さんは2002年1月にシエラレオネに再び戻って来ました。

今度は、瀬谷さんは訪問者ではなく、国連のボランティアとしてでした。

瀬谷さんの任務は、職業訓練を提供することによって、元兵士たちを社会復帰させることを推し進めることでした。

いろんな国出身の1チーム15人のスタッフと一緒に活動し、瀬谷さんは徐々にDDRの専門的な知識を伸ばしていきました。

Section3

戦後には、やらなければいけない作業がまだたくさんあります。

兵士たちは仕事もなく、住む家もなく、家族を養うお金もない状態で街に放り出されるかもしれません。

元兵士が武装紛争に戻る危険が常にあります。元兵士たちは社会に戻り、生産的な生活を送ることができなければいけません。

これが社会復帰です。

2003年から2005年まで、瀬谷さんはDDRのチームと一緒にアフガニスタンにいました。

63380人の兵士を武装解除させ、12000以上もの重火器を集め、58000近くの小火器を集めました。

2009年には、瀬谷さんはスーダンにいて、少年兵を含む傷つきやすい若者たちを支援する新しいプロジェクトを立ち上げる任務に取り組んでいました。

こうした子供たちの信頼と、子供たちが帰って行く共同体の信頼を得なければいけないことを知っていました。

信頼はDDRの活動では大切な役割を果たします。

谷さんは、内戦で5年間、兵士だったマイケルという名前の男の子に出会いました。

戦争が終わると、マイケルは警察に移送されました。

当時、マイケルは学校に戻りたいと思っていました。しかし、着手の仕方を理解できませんでした。

瀬谷さんはマイケルの支援を申し出ましたが、マイケルは瀬谷さんを信頼していませんでした。

あまりにも多くの人が守れない約束をしてきていたからでした。

最初に、瀬谷さんはマイケルの信頼を得なければいけませんでした。

それから、マイケルが学校に戻れるように許可してくれるようにマイケルの上官を説得しなければいけませんでした。

瀬谷さんはこの両方の作業に成功しました。

イケルの将来は難しく、不確かでしょう。

マイケルは他の人を信頼することを学ばなければいけないでしょう。

自分自身を信頼することを学ばなければいけないでしょう。瀬谷さんは、マイケルに今こそ自立するのよと言いました。

「これは私の人生じゃないのよ。あなた自身の人生よ。これからは自分の力で考えなきゃだめよ」と言いました。マイケルは「何をすることになるのかやっとわかったよ。これは僕の人生なんだ」と答えました。

瀬谷ルミ子さんにとっての1つの小さな成功でした。



Section4

では自身の経験と専門知識から、瀬谷さんは、知識と技術を持っているだけでは解決策を見つけるのには十分じゃないんだということを確信しています。

君たちが既成の解決策を携えて戦争や紛争で荒廃した地域に行くことはまずないのです。

解決策を見つけるためには、人々に直接会って、声を聞くことが必要だと、瀬谷さんは信じています。

た、瀬谷さんは、支援を与えすぎると、人々から自立しようという気持ちを奪うことになる可能性があると確信しています。

瀬谷さんは言います。「私にできることは、人々に選択の自由を作ってあげて、少しだけ支えてあげることです。自分自身の生活と社会をうまく回していけるかどうかは、現場にいる人たち次第なのです」

らなければいけないことはたくさんあります。

十分に人がいるわけではありません。十分な資金があるわけではありません。

うまく行った事例はありますが、限られています。

谷さんは言います。「たとえ何か有望そうなことをどうにか作ることができたとしても、すべてを解決できるわけではない状況があります」

活動はいつ終了するのでしょうかと尋ねられて、瀬谷さんは「人々がもはや私たちを必要とはしていないと言ってもらえるときに、私たちの活動は終了するのです」と言います。

々な文化的な生い立ちを持っている人の窮状に対処する際に、瀬谷さんは難しい立場にいることによく気づきます。

しかし、瀬谷さんには、DDRの専門家としての職業を選んだことについて後悔はまったくありません。

状況が難しくなってくると、瀬谷さんは自分自身に言い聞かせます。

「何かができないことの言い訳を見つけようとしてはダメだ。ひょっとして問題に対する完璧な解決策は見つけられないかもしれないけれど、でも、問題の10%を解決するために出来ることを考え始めることはできる。少なくとも、、それが正しい方向への一歩なのです」

谷さんはくじけません。

瀬谷さんは、たとえひどい状況に直面しても感情に圧倒されることを許さない人だと、同僚は言います。

瀬谷さんは、私たちが困っている人たちに同情するだけでは十分ではないと信じています。

私たちは困っている人と一緒になって選択の自由を作りださなければいけません。

結局、人は自分で自分自身を助けなければいけないのです。

Optional Reading『Design Your Own Life: A Message from Seya Rumiko』和訳

私は戦争の影響を受けている国々で平和を築くために活動しようと決心した、まさにその瞬間を今でも覚えています。この教科書を今、読んでいらっしゃるみなさんとちょうど同じくらいの年齢、高3でした。私は社会全体に対して悲観的でした。バブル経済が終わった直後のことでした。日本の経済は悪化していて、雇用率は低下していました。政治腐敗のニュースが頻繁にメディアで伝えられました。

高校最後の学年の春のことでした。私は将来何をやりたいのか、まだ決められませんでした。勉強を続けるべきなのかどうか、あるいは、何を専攻するつもりなのかわかっていませんでした。家庭が金銭面で私を大学に通わせられるのかどうか心配でした。無力感を感じていました。

そんなときに、世界観と自分の人生の見方を変える写真を見ました。ルワンダの難民キャンプで暮らす家族の写真でした。その家族には生きるための基本的人権すらありませんでした。たとえこの家族が死んだとしても、記録されることはないでしょう。私は無力感を感じました。この家族にはどんな力も、どんな選択肢も本当にありませんでした。私は努力すれば人生を変えられることがわかっていないまま、自分の人生に不平を言っていました。私にはたくさんのチャンスと可能性がありました。努力しさえすれば、人生を変えられたのです。

私は不満を口にするのをやめ、紛争に苦しんでいる人たちのためにできることをやろうと決心しました。あの写真に写っている家族が、世界を見る見方を変えるきっかけをくださったのです。

みなさんへの私のメッセージは、私が難民キャンプのあの写真から受けたメッセージと同じです。今までとは違った観点で自分自身を、世界をご覧ください。みなさんも、あのときの私とちょうど同じような高校生です。みなさんも、たくさんのチャンスと無限の可能性をお持ちです。ご自分の人生で何をなさるかは、完全にみなさん次第なのです。この大切な点だけは覚えておいてください――みなさんはご自分の人生のデザイナーなのです。