旧CROWN 3年 和訳[305]

【クラウン3年】Lesson4/Be Aware! Be Engaged!【和訳】

このページでは高校クラウン・コミュニケーション英語3年/Leeson4【Be Aware! Be Engaged!】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【CROWN3】Lesson4/Be Aware! Be Engaged!【和訳】

Before You Read
芸術を見たいと思うときに、どこに行きますか? おそらくは、美術館や、画廊や、劇場のような日常生活とはかけ離れた特別な場所に行くことでしょう。そうした特別な場所のうちの一つに行くときには、普段の自分とは少しだけ違う人物になるものです。芸術を見に行こうという意識的な決定を行った人物に変身するのです。「私は芸術を鑑賞する人物なんだ」と自分に語りかけるのです。

しかし、芸術は美術館の中になければいけないのでしょうか? 芸術が見つけられる場所と、芸術を見る人の態度の両方を変えたいと思っている現代芸術家もいます。見る人を驚かせ、衝撃を与え、笑わせたいと思っているのです。現実の世界の中で自発的に芸術を経験してほしいと思っています。

Section1

ルバート・アインシュタイン、徳川家康、坂本龍馬が最近、丸の内のあちこちに置かれていたのを知っていましたか?

ええ、そうなんです。

有名な人物の等身大の像が有楽町と大手町の間のベンチに置かれるという美術展覧会「ベンチ・アート in 丸の内 2012」の一部でした。

「生活の一部として芸術を楽しむべきなんですよ」と、この企画の責任者・山田五郎さんは語りました。

なさんは、美術館で、絵画や彫刻や陶器のような芸術を見るのにはおそらく慣れていることでしょう。

しかし、丸の内での展覧会の目的は、芸術を美術館から持ち出し、毎日の生活の中に持ち込むことでした。

の内の展覧会は、芸術と生活の間の境界線を「融解」する芸術の例で、芸術家の創作に面と向かわせてくれ、新しい種類の考えへのドアを開けてくれます。

ンチに座っているアインシュタインの彫刻は、美術館の中にある彫刻よりも人間味にあふれていて、親しみやすいものです。

もし通りを歩いていて、アインシュタインがベンチに腰掛けてるのを見かけたら、どうしますか?

他のたくさんの歩行者と同じだったら、隣に座るかもしれません。

肩に腕を回して、誰かにツーショットの写真を撮ってもらうように頼むかもしれません。

アインシュタインは世界をどのように変えたのだろうか、そして自分自身は世界をどんなふうに変えるのだろうかと、ひょっとすると考えるかもしれません。

あるいは、アインシュタインと友達だなんて、一体どんな感じなんだろう、と考えるかもしれません。

もしかすれば、アインシュタインの隣に座ると、見慣れた周囲を新鮮な目で眺めるかもしれないし、アインシュタインだったらこの周囲の状態をどのようにとらえただろうかとじっくりと考えるかもしれません。

そして、そんな風にして、芸術に直接、関わっていることになります。

これこそが、芸術家が望んでいるものです。

注意を集中させ、行動を変えるような方法で、生活の中に芸術を思いがけなく持ち込むことです。



Section2

る晴れた日の午後、みんなはブラブラ散歩しているかもしれませんし、携帯でメールを送ってるかもしれません。

そして、出会うのです―――え、白クマ?

ち止まり、見ます。もう一度、見ます。

これって、ホームレスの白クマ?

ちょっと前まで、自分だけの意識の世界に没頭していたのです。

次の瞬間、極度に警戒して、目の前にいるものに全神経を集中するのです。

こう考えるかもしれません――「白クマは、往来のこんなところに座って何してんだろう? どうして、白クマが、ホームレスっぽいんだ?もしかしてだけどホームレスをからかってるんじゃないのか? お金を上げたほうがいいのか?一体、何なのか?どうすればいいんだ?」

白クマさんを作った芸術家は、見る人を普段の決まりきった日常から解放することに成功しているのです。

いままでよりも深いレベルで、見る人と外部の世界を相互に影響させているのです。

ームレスの白クマさんは、米国の芸術家マーク・ジェンキンズさんの作品です。

ジェンキンズさんは動物や人間の実物そっくりの彫刻を作り、たいていは許可なく公共の場所に彫刻を置きます。

例えば、写真のようにデパートの前の歩道にひざまずく人物を置いたりするように。

なぜこのような作品を作るのかとインタビューで聞かれたときに、ジェンキンズさんはこう答えました。

「僕は、みんなに周りの世界に疑問を持ってもらうのが好きなんだ。

何が現実で、何が現実じゃないのか?ってね。最近、みんな携帯にとても夢中になってるよね。

僕は携帯から目を上げてもらいたかっただけなんだよ」

境保護活動家と一緒に活動して、ジェンキンズさんは、地球温暖化に注目してもらうためにホームレスの白クマさんを作ったのです。

また、白クマさんの住める場所がなくなってきているから、ホームレスの白クマさんは、現実の白クマさん問題に目を向けさせてくれます。

みんなに「ホームレスの人たちに共感するのと同じように、白クマさんにも共感してほしいんだ。ホームレスの人と白クマさんを2つの関連した問題だと考えているのです」と、ジェンキンズさんは言いました。

Section3

術は微笑ませ、同時に考えさせてくれることも可能です。

芸術は滑稽でもあり、深刻でもありえます。

小さな人たちが階段に座っている次の写真を見てみましょう。

ブラジル人芸術家ネレ・アゼヴェドさんが創作したこの像は、氷でできていて、ベルリンの公共の広場に置かれました。

ほとんどすぐに融け始めました。

この芸術家の「融ける人たち」は、どんなメッセージを私たちに伝えようとしているのだと思いますか?

ェンキンズさんの作品とちょうど同じように、こうした小さな人物たちも地球温暖化の危険に対する警告だと考えるかもしれません。

そして、実際、この解釈は正しいのかもしれません。

この像は、グリーンランドや南極の氷冠が融けていることに人々の注意を向けさせます。

かし、「融ける人たち」の元々の制作意図は、地球温暖化にはほとんど関係がないと、アゼヴェドさんは語っています。

気候変動に関する活動家なのですかと聞かれて、違いますと答えたことがありますし、最初の段階では、「融ける人たち」は公共のモニュメントについての論評だったのですと付け加えました。

英雄を特徴のない像に置き換えたのでした。永久にもつ石をすぐに融ける氷に置き換えたのでした。

アゼヴェドさんは次のように当時を思い出しています。

「計画は単独の像として始まりました。その後で、氷で作ったたくさんの小さな彫刻がいくつかの都市の公共の場所に置かれました。

小さな像は融けましたが、この像の記憶は写真や、実物を見たことのあるみんなの心の中に保存されます。

立派なモニュメントの中に保存されている偉大な英雄とちょうど同じように」

アゼヴェドさんは、立派なモニュメントでさえも最後には、「融ける人たち」とちょうど同じように崩れてちりになり、消えていくことになるでしょうと付け加えたのかもしれません。

2005年から、アゼヴェドさんは、「融ける人たち」を世界中のいろんな国に設置してきています。

そして、環境保護活動家たちは今では、アゼヴェドさんの作品を気候変動芸術として認めています。

アゼヴェドさんは、自分の芸術の新しい解釈を受け入れています。

「芸術作品をどう解釈するかは自由です。この惑星に私たちが住み続けることを脅かす大切な問題について、私の作品が何か伝えられることも、とてもうれしいことです」と語っています。



Section4

たちが公共のモニュメントとどう結びついているのかに興味も持っている日本人芸術家のTatzu Nishi(西野達=以下すべて「西さん」とお呼びします)は、問題にまったく違う方法で取り組んでいます。

シンガポール・ビエンナーレ2011の中心になる事業の一つとして、西さんは、ライオンの頭を持ち、魚の体を持つ神話上の生き物であり、シンガポールの国民的なモニュメントのマーライオンの設定を変えるという考えを思いつきました。

西さんは、マーライオンを動かさないで、豪華ホテルの1室の中に置く計画を立てました。

西さんがやったことは、かなり注目に値することで、あるいは、一部の人にとってはとんでもないことでさえありました。

西さんは、高さ8.6mの神話上の生き物の周りに豪華ホテルの1部屋を作ったのです。

ーライオンホテルは、公共の場所をプライベートな場所に変えます。

ホテルの自分の部屋のすぐそこに有名なモニュメントがあるのです。

2011年3月13日から5月15日まで、マーライオンホテルは一般に公開され、誰もが、半ライオン・半魚の像がホテルの部屋の真ん中に現れるというこの不思議な光景を写真に撮ることができました。

夜には、1泊滞在のために営業しました。

名なモニュメントがある部屋で寝るなんてどんな感じなのでしょうか?

答えがどのようなものだとしても、おそらくは以前、このような質問を受けたことは一度もなかったことでしょう。

マーライオンホテルへの階段を上がっているところを想像してみてください。

ホテルの部屋に入って、すると突然、あの像とご対面するのです。

これって、どんな感じがするものなのでしょうか?

そして、ホテルの部屋の窓から外をじっと眺めると、マーライオンの目線で物事を眺めるというユニークな機会を手にするのです。

世界を眺める目が変わってしまうことでしょう。

の事業を通じて、西さんは、当然だと思えたり、ありふれていると思えたりするものへの新たな視点を、見る人に与えることに成功したのです。

このことはおそらくは、芸術が私たちのためにすることができる一番大切なもののうちの1つでしょう。

芸術が好きでも嫌いでも、芸術は日常生活の一部になって、私たちにメッセージを送っていることでしょう「身の回りの世界をごらんなさい。意識してください!関係をもってください!」



Optional Reading『Breaking Out, Breaking In』和訳

マーク・ジェンキンズさんのような芸術家は、芸術は公共の場所で接することができるべきだと信じています。街路でも、地下鉄の駅でも、たとえ丸の内の公園のベンチであっても芸術は身近にあるべきだと考えています。こういう芸術家たちは芸術を(束縛から)自由にし、美術館から「持ち出す」ことを望んでいます。

100年近く前に、よく似た考えを持っていた芸術家集団がいました。美術館は芸術だと見なされるに値するたくさんのものを締め出していると、この集団は感じていました。このグループの芸術家たちは日常の品々を持ち出し、額縁の中に置いたり、台座の上に置いたりして、これは「芸術」作品だと主張しました。「何が芸術なのかを決める資格を誰が与えられているのか? 芸術家か? 美術館のディレクターか?」と問いかけていたのです。芸術を美術館に「持ち込む」ようにしていたのです。

フランスのシュールレアリスト、マルセル・デュシャンはこうした一番有名な芸術家の1人です。ここにデュシャンの作品のうちの2つ(を写した1枚)の写真があります。帽子掛けと普通の便器の写真です。便器は金物屋さんで買って、台座に置き、『泉』という題が付けられました。

またデュシャンはこの(=右の写真にある)『彫刻』という作品も展示しました。自転車の車輪です。(作品を作った)芸術家(本人)が「これは芸術だ」と言えば、それは芸術なのでしょうか?

デュシャンには少しはいたずらっぽい気持ちもありましたが、重大な指摘もしていました。最近では、500人の美術評論家が、『泉』は現代美術の中で一番影響力のある作品だと見なしました。

1917年(当時は)、ごく普通のありふれたものに題を付け、台座に乗せて威厳を与えることは、芸術であるものと芸術ではないものに関する一般に認められていた通念に対する衝撃的な挑戦だったのです。芸術作品であるためには、そのモノは最低限、芸術家の手によって作り変えられていなければならないと、評論家たちは信じていました。

しかし、今日では、たくさんの美術評論家がモノをただ単に場所を置き換えたり、題名を与えるだけで、そのモノを作り変えたことになると主張しています。この作業によってそのものの機能や立ち位置の受け止め方が変わるからです。

ミケランジェロは石のカタマリを拾い上げ、作り変え、『ダビデ像』と呼びました。デュシャンは便器を拾い上げ、手を加え、『泉』と呼んだのです。これは2つとも「芸術」なのでしょうか? 決めるのは、みなさんです。