旧CROWN 3年 和訳[305]

【クラウン3年】Lesson1/An American in the Heart of Japan【和訳】

このページでは高校クラウン・コミュニケーション英語3年/Leeson1【An American in the Heart of Japan】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【CROWN3】Lesson1/An American in the Heart of Japan【和訳】

Before You Read
ドナルド・キーンさんは世界で一番有名な日本研究家のうちの1人です。キーンさんは日本文学を西洋に紹介することに大切な役割を演じてきています。

キーンさんの日本への興味は、ニューヨークに住んでいた十代の頃、英語で『源氏物語』を読んだ1940年に始まりました。アメリカ海軍の学校で日本語を勉強し、後に第2次世界大戦中は太平洋地域の情報機関の士官として働きました。戦後は京都大学で研究しました。

キーンさんの人生の多くの期間は、ニューヨーク市にあるコロンビア大学の教授でした。しかし、日本には何度も帰って来ていました。2011年、キーンさんは日本に移り住み、日本国民になりました。

キーンさんの回想録『わが人生の年代記』は、2008年に出版されたのですが、約半世紀以上にわたる日本での貴重な体験がつづってあります。



Section1

ナルド・キーンさんが1940年にタイムズスクエアの本屋さんで1冊の『源氏物語』を見つけたときに、すぐに日本のとりこになりました。

「私は読むのをどうしてもやめられませんでした。何度も何度も細かいところまで読み返したことも何回かあります。

『源氏物語』の世界と自分の世界を比べました。

『源氏物語』の中では、怒りは決して暴力に変わったりしませんでした。

戦争はまったくありませんでした。

主人公の源氏は、ヨーロッパの英雄物語の主人公たちとは違って、10人がかりでも持ち上げられないような岩を持ち上げられるような、肉体的に強い人物としては描かれていませんでした。

源氏は悲しみを知っていました。

これは、政権を引き継げなかったからではなく、源氏が人間であり、この世の生が必然的に悲しいからにほかなりませんでした。

この時まで、私は日本を主に軍国主義国家だと考えていました。

軍語学学校で日本語を勉強した後、キーンさんは第2次世界大戦中、太平洋地域の情報機関の士官として働きました。

仕事の1つは文書を翻訳することでした。

日本兵が書いたノートは、そうした文書の中にありました。

「小さなノートは日記だと告げられました。

それまでに翻訳したことのある印刷された文書とは違って、兵士たちの最後の日々の苦しみを記録していて、日記は時としてとても感動的でした」

「日本兵の日記の最後のページには、日記を見つけたアメリカ人に戦争が終わった後、自分の家族に日記を返してほしいとお願いする英語での伝言を含んでいることが時々ありました。

してはいけないことになってはいましたが、私は日記を保管しました。

兵士のご家族にお返しするつもりだったからです。

しかし、私の机は捜索を受け、日記は持って行かれました。

これはとても残念なことでした。

その時までに私が本当に知った初めての日本人は、私が出会ったときまでにすでに全員が死んではいましたが、こうした日記を書いた人たちだったのです」

Section2

ーンさんは戦後アメリカに帰国しましたが、日本に魅せられたままでした。

1953年、再び日本にやって来ました。今度は京都大学で研究するためでした。

「ある夜、日本人の友達と一緒に先斗町を歩いていました。

すごくきれいで、ほとんど目を疑いたくなるくらいでした。

先斗町の狭い路地の両側の建物全部が和風建築でした。

どの玄関先にも提灯がありました。

若い芸者さんが路地を歩いていました。

金の糸が暗闇の中でキラキラ輝く着物を着ていました。

先斗町は日本文化のもう一つの面――女性らしい側面、関ヶ原の対極に位置するもののように思えました。

その夜は魔法のようでした。

近年、こうした風情が変化していく様を目にするのは悲しいものです。

「龍安寺もすぐ近くにありました。

海軍語学学校にいたころ、龍安寺の有名な枯山水の石庭のうわさは耳にしていましたから、見てみたいと思っていました。

時折、旅行客がやって来ました。

しかしどういうわけか、枯山水の美しさは、人が旅行客から想像する驚嘆の声を押しだまらせました。

月明かりの下で庭園を見に行ったときの最高の一夜のことを覚えています。

深刻なことは考えないでぼんやりと、枯山水をじっと眺めていると、すぐそばで物音がしました。

周りを見渡すと、龍安寺の住職の奥さんが私の脇に1杯のお茶を置いてくれるのが見えました。

私たちはしばらくお話しをしました」

「京都の、いや実は日本全体に関する一番、強烈な思い出は、私が出会った人々についてのものでした。

友達になった人たちだけではなく、ほとんど知らない人のうちで、私に親切にして下さった人、龍安寺の住職の奥さんのような人たちの思い出です」

都に滞在中、キーンさんは『日本文学選集』を編集しました。

日本学が世界的な広まりを見せ発展する上でとても大きな役割を果たすこととなる大切な作品でした。




Section3

2011年1月、コロンビア大学を引退した後、キーンさんは日本を故郷にすることにしました。

次の年、89歳の時、日本国民になりました。

「もし東日本大震災がなければ、私の日本国籍取得は、新聞のほんの数行の記事にしかならなかったでしょう。

しかし大震災は、私の個人的な願望に特別な意味を与えました。

たくさんのお手紙を受け取っています。

送っていただいた方は、日本に定住するという私の決意に元気づけられ、感動したのです」

ーンさんは、第2次世界大戦の後、日本が成し遂げたのとまったく同じように、日本はこの大震災から復興し、以前よりもさらに素晴らしい国になるだろうと信じています。

1945年12月に10日間程、東京を訪れていました。残っているものはと言えば、倉庫と煙突だけでした。当時、人々は日本が再建するには50年以上かかるだろうと言っていました。

1953年、キーンさんは日本に戻ってきました。

復興は誰もが可能だと考えていたのよりもずっと早いものでした。

日本はまったく違う国になっていたのでした。

1955年、キーンさんは、芭蕉が旅をした跡をたどって東北を回る旅をしました。

大戦でほぼ完全に破壊されていた仙台が復興したことがわかりました。

中尊寺を含む、芭蕉が訪れた場所のうちの多くを見つけることができました。

2011年、キーンさんは大震災の6か月後、再び中尊寺を訪れ、家が大震災で損傷を受けた人を含む聴衆に向かってスピーチをしました。

話が終わった後で、一度もキーンさんに会ったことがないお年寄りのご婦人が近づいてきました。

「ご婦人は私と握手をしました。

私は感動しました。2人の握手は私の生涯にわたる日本との絆の象徴だと感じました。

日本に深く感謝する気持ちでいっぱいでした。

こうした人たちと一緒に生きたい、こうした人たちと一緒に死を迎えたいと思います。

私は日本を愛し、日本を信じているのですから。私は日本とともにありたいのです」



Optional Reading『How Does It Sound in English?』和訳

それって英語ではどんなふうに聞こえてるの?

ドナルド・キーンさんのような方たちのおかげで、今では、たくさんの日本文学が英語の翻訳で手に入ります。日本文学の主な作品からとった一節の次の翻訳を読んでみましょう。英語ではどのように聞こえるのでしょうか? こうした(英語に翻訳された)文章が元の本と一致できるかどうか見てみましょう。

(1)春には、夜明け――ゆっくりと薄くなって行く山のへりが赤みを帯び、かすかに深い紅紫の雲が幾筋か空に浮かぶときです。

夏には、夜――月明かりの夜はもちろんですが、月の出ていない夜もいいものです。ホタルがそこかしこにクネクネ飛び交うときは美しいものです。ほんの1匹か2匹だけが暗闇の中を飛び、ほんのりと光っているのを見るのもまた素晴らしいものです。夏の夜、雨が降るのもかわいらしいものです。

秋には、夕暮れ――ギラギラ太陽が山のへりにとても近づいて沈みそうなときには、3羽4羽、あるいは、2羽3羽とねぐらへと急ぐカラスだって感動的な光景です。さらに魅惑的なのは、遠くの空にとても小っちゃく見える野生のガンが1列になって飛んでいる光景です。日が沈みきって闇が広がる中、風の音を聞き、秋の虫たちの歌を聴くのは、なんて筆舌に尽くしがたいものでしょうか。

『枕草子』  清少納言

春はあけぼの。
やうやう白くなり行く山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。
月のころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。
また、ただ一つ、二つなど、ほのかにうち光るて行くもをかし。
雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。
夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、
三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。
まいてかりなどの連ねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。
日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

(2)月と日は永遠の旅人です。来ては過ぎ去って行く歳もまた航海者です。船の上に浮かんで人生を過ごす人たちや、馬を引いて歳を重ねる人たちは永遠の旅をしているのです。旅が連れて行ってくれる場所ならどこでも、この人たちの家です。

『奥の細道』  松尾芭蕉

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。

(3)私はネコです。今のところまだ名前がありません。どこで生まれたのか、まったくわかりません。初めて人間を見たときに、湿っぽい暗い場所でニャオミャオ鳴いていたことしか覚えていません。後で聞いたことですが、このとき見た人間は人間の中でも一番凶暴な部類に属していました。書生と言って、賄い付きの下宿を提供してもらうお返しに、家の周りのこまごまとした雑用をする学生の1タイプでした。時にはこの種の人間はネコを捕まえて、煮て、食べるそうです。でも、こうした生き物をまったく知らなかった当時は、特に怖いとは感じませんでした。

『吾輩は猫である』 夏目漱石

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓(とん)と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然(しか)もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰悪(だうあく)な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕(つかま)へて煮て食ふといふ話である。然し其當時は何といふ考(かんがへ)もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。