旧CROWN 2年 和訳[306]

【クラウン2】Reading2/A Fall Before Rising【和訳】

このページではクラウン2/Reading2【A Fall Before Rising】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。

【CROWN2】Reading2/A Fall Before Rising【和訳】

転落から高みへ

p.166

ジャイ・ジャイクマーはインドで大学教育を受けた。その後、アメリカで学び、アメリカの大学で教鞭をとった。母国インドで育ち、彼は常に登山を愛していた。登山技術が向上するにつれ、彼はヒマラヤ登山を決意した。そこで人生を変える経験をすることとなった。

1966年のある夏の日のことでした。私は親友のひとりとヒマラヤ山脈の2万4,000フィートのとある山頂に立ちました。午後4時、既に暗くなってきており、景色を楽しむ時間もほとんど残されていませんでした。

私たちの最終登攀とうはん(登山で、険しい岩壁などをよじ登ること)は、その朝2時、高地キャンプからスタートしました。それは思っていたよりはるかに厳しいものでした。私たちは夜を過ごすキャンプに無事に戻るべく、登攀終了を午後1時と定めていました。けれども、1時になったとき、私たちは前進を決めました。

p.167

私たちは頂上に到達しましたが、時間が迫っていることを自覚していました。短い祝福のあと、下山を開始しました。私たちは風で雪庇せっぴ(雪のかぶった山の尾根、山頂などに、風が一方方向に吹き、風下方向にできる雪の塊)が形成されている危険なルートを進みました。それがどれだけ危険かわかっていたので、友人と私はふたりを結ぶロープをほどきました。もはや、片方が落下しても、他方を死の淵へ引きずりこむことはないのです。

私が先頭をつとめました。次の一歩を踏み出そうとしたとき、大きな音がしました。雪庇が足下で崩れ落ちると同時に、私は一方にジャンプし、友人がもう一方にジャンプしました。着地すると、傾斜がきつすぎ、私は足を滑らせ、滑落し始めました。瞬時にして山肌をほぼ時速60マイルで落ちていきました。

私は自分の速度を制御できませんでした。目の前に突如現れる巨大な岩に激突することを避けるべく、私は足先を雪と氷に必死に食い込ませました。ついにやっと、停止しました。私は山の斜面を1マイル半以上落下したのです。

私は血まみれで脳しんとう状態でした。体を動かそうとすると、それは地獄でした。まわりを見渡しても、友の姿は見あたりませんでした。自分が間違った面を滑落したことはわかっていました。キャンプは反対側にあるのです。しかし、後戻りは不可能に思われました。

もっと下に降り、意識を失う前に助けを見いだせなければ、自分に生存の望みがないことはわかっていました。私は歩く決心をしました、もはや歩けないという状態になるまで。私は日中ずっと、そして夜に入っても歩き通しました。あの数時間は筆舌に尽くしがたいものです。ひどい孤独、肉体的苦痛と寒さ、そして友はほぼ確実に死んでしまったという認識です。

突然、一匹の犬が遠くでほえるのが聞こえました。

p.168

気持ちは高揚しました。人間の生活がこの先のどこかにあるのです。子どもたちの笑い声が聞こえました。私は前進し続け、小さい小屋にたどり着きました。

私は意識を失い、目を覚ましたとき、おそらく40歳くらいの小柄な女性が、私には理解できないことばで語りかけながら、私に食べ物と水を差しだしてくれていることに気づきました。数時間の間、私はその女性が差し出してくれる食料と水を受け取る以外なにもできませんでした。痛みがひどすぎて身動きができなかったのです。

とても驚いたことに、その女性は、山道を下って私を隣村に運んでみようと言っているようでした。背中に私をおぶって彼女は500フィートかそこらを歩き、そして休息がとれるよう私をおろしました。彼女は水を飲み、私にも水を勧め、そして再び背中に私を背負いました。私たちはこのようにして一度に数百フィートずつ、まる3日間歩き続けました。

隣村に着いたとき、女性は、私をロバの背に乗せて病院のあるもっと大きい村に連れていくよう役人に依頼しました。親切と助力に対する謝礼を受け取ることを、女性は固辞しました。私が大丈夫そうだと知って、彼女はうれしそうでした。彼女はあっさりと手を振り別れを告げ、帰路につきました。

p.169

その村から、私は2日間ロバの背にゆられました。その間、私は状況全体を異なる視点でとらえ始めました。私は、自分の人生がいかにはかないものであり、私の置かれている状況が瞬時にしてどれほど急変しうるかを悟りました。私は、感謝のことばを求めることすらせず、本当に多くのものを与えてくれた女性の親切心の源について考えました。

私たちはやっとのことで病院に着きました。治療をしてくれた医者は、けがはとても重篤であるが回復するであろうと言ってくれました。体の回復は急速でしたが、滑落、友の死、そのあとに続いた出来事について考えずにはいられませんでした。回復の過程で、自分がいかに幸運であったかを理解し始めました。雪庇の正しい側にジャンプして生き残った幸運、滑落のあと正しい方角に歩みを進めた幸運、あの女性に助けられた幸運、今のように順調に回復してきている幸運です。私は、自分の成功はみな幸運の結果であり、私より運に恵まれてない他者を手助けする義務が自分にあると悟りました。

山での滑落後1年の間、私を助けてくれた女性の親切を常に考えつつ、なんとか彼女に恩返しをしたいと希望し、彼女の村に戻る計画を立てました。ひとつの考えがありました。学校を建て、初めての教育の機会を子どもたちに提供することで、村人たちの「運」を向上させる試みはどうだろう。続く数か月間、私は教員の給料と学校建設のための募金を集めました。

p.170

そのひとつの学校を建てるという私の考えは膨らみ、使命となりました。滑落から30年、私はアメリカに移り住み、大学院の学位を得、大学教授になりました。しかしその間ずっと、人里離れた村々の学校建設・運営支援の募金活動を続けています。

登山を愛する気持ちにより、ヒマラヤのあのひとつの山の登山へと導かれた一方、滑落により、はるかに素晴らしい頂に到達する力添えを得ました。それによって、私の世界観は形成され、自分の学生全員に私が送る助言へとつながっていきました。この世界におけるあなた自身の運を認識するよう努力しなさい。先生方や愛情あふれるご両親からあなたに与えられる「運」です。とりわけ自分の幸運から生まれる責任を正しく理解しなさい。

幸運から成功は生まれ、成功からは責任が生まれます。あなたが他者の幸運を生みだすとき、あなた自身が最高の頂に到達するかもしれないのです。