このページではクラウン1/Optional Lesson【Heroic Losers】の和訳を載せていますが、学校で習う表現と異なる場合がありますので、参考程度に見てください。
【CROWN1】Optional Lesson/Heroic Losers【和訳】
英雄的な敗者たち
オリンピックは、勇気、技能、そして忍耐力を発揮する素晴らしい場だ。勝者は称賛され、敗者は忘れ去られる。しかし、常にそうであるとは限らない。ときには、敗者が勝者とまったく同様に有名になることもある。
ラナトゥンゲ・カルナナンダは 1964 年の東京オリンピック、10,000 メートル競走で負けてしまったのだが、彼はその勇気でファンの心をつかんだ。カルナナンダが競技で負けるのを見た人のだれもが、彼のことを忘れることはないだろう。
1988年、カナダでの冬季オリンピック大会において、ジャマイカのボブスレーチームは惨敗した。彼らも敗者だったのだが、彼らが示した情熱と勇気のために大変有名になり、その物語は映画になった。英雄的な敗者たちの物語を読んでみよう。
p.166-167
1964年の東京オリンピックでのもっとも有名な選手のひとりは、ラナトゥンゲ・カルナナンダという名のセイロン(現在のスリランカ)の28歳のランナーであった。
彼は大変に優れたランナーだったというわけではない。
しかしオリンピックにおいては、まったく人生と同じように、一等になることがただひとつの大切なことではない。
ときには精神力と勇気が強さと速さよりも大切なのだ。
レースの当日、カルナナンダはひどい風邪をひいていた。
しかし、彼は自分の娘に彼がスタートからゴールまで走り切ったことをわかってほしかった。
体の不調にもかかわらず、彼は走ることを決意した。
スタートラインでは、カルナナンダはアメリカ人のビリー・ミルズの隣にいた。
ビリー・ミルズは最終的に勝者となるのだった。
レースがはじまると、カルナナンダはすぐに遅れてしまった。
レースが進むにしたがって、カルナナンダは一団から遅れた。
優勝したビリー・ミルズがゴールしたとき、カルナナンダは四周遅れだった。
多くのランナーがカルナナンダを四回も追い越したのだ。
レースの上位者がゴールしたときに、カルナナンダは完走しなくてもよかった。
しかし、カルナナンダはひとりトラックにとどまり、さらに走り続けた。
最初にカルナナンダがひとりで一周したとき、スタンドにいた人々は笑い、冷やかしさえした。
p.168-169
しかし、カルナナンダは走り続けた。
カルナナンダが二回、三回とトラックを回ると、観衆は静かになった。
最終周の最終コーナーを回ると、カルナナンダは全力疾走でラストスパートをした。
スタンドの人々は立ち上がって大喝采をした。
カルナナンダがゴールするときには、冷やかしは大歓声になった。
レース後、なぜ走り続けたのかと尋ねられたとき、カルナナンダはただこう答えた。
「勝つことよりも参加することのほうが大切です。娘が大きくなったときに、娘にお父さんは頑張った、と言いたいのです」
優勝したビリー・ミルズは有名になった。
彼はオリンピックの金メダルを獲得したまだ二人目の先住アメリカ人だったのだ。
彼について映画作品が制作された。
ミルズは若い先住アメリカ人を支援することに自分の人生を捧げ、2012年にオバマ・アメリカ合衆国大統領から大統領市民勲章を授与された。
しかし、英雄的敗者もまた記憶に残るのだ。
1965 年に市川崑が『東京オリンピック』と呼ばれる映画を制作した。
カルナナンダは何人かの勝者と同じくらいスクリーンに登場している。
1964年のその日にその場にいた人で、レースには負けたが何百万もの人々の心をつかんだ若き父親のことを忘れる人はいないだろう。
p.170-171
ジャマイカはほとんど雪を見ることのない熱帯の国だ。
ボブスレーはヨーロッパや北米で人気のあるウィンタースポーツだ。
しかしどういうわけか 5 人のジャマイカの若者が、ジャマイカのボブスレーチームを編成して1988年のカナダでの冬季オリンピック大会に参加するという考えを思いついた。
5人のうちだれもボブスレーのコースを滑り降りたことはなかった。
実際のところ、テレビ以外でボブスレーを見たことさえなかった。
おまけに、だれも雪を見たこともなかった。
ともかくも、デヴォン・ハリス、ダドリー・ストークス、クリス・ストークス、マイケル・ホワイト、そしてフレディー・パウエルは、チームの出場資格をなんとか得ることができた。
彼らは競技のためのボブスレーさえも持たずにカナダに到着した。
ほかのチームは喜んで協力してくれた。
ジャマイカチームは練習のためにほかのチームからボブスレーを借りた。
ほかのチームのメンバーたちは援助をしてくれ、部品を貸してくれた。
世界中のボブスレー選手たちが、援助、思いやりによって本当のオリンピック精神を示したのだ。
観客はすぐにジャマイカチームが好きになり、応援をして勇気を与えた。
p.172-173
ジャマイカの選手たちは練習をするたびに上達して、そして素早いスタートで審判に好印象を与えた。
もし人生が映画であるならば、ジャマイカチームはヨーロッパやアメリカを負かす手立てを見出すということになったのだろう。
現実の世界では、彼らは負けた。
四回滑走をしたが、最終的には制御できなくなって激突した。
公式的には彼らは敗者である。
だが、彼らの勇気ある努力を目にしたすべての人にとっては、彼らは英雄だった。
5年後、1988年のジャマイカチームのオリンピック出場に基づいて、映画『クール・ランニング』が制作された。
現実においては、ジャマイカチームは激突して敗退したのだが、映画において彼らはボブスレーを持ち上げて担いでゴールを越える。
実際の人生では彼らは敗者なのだが、スクリーンでは彼らは勝者だ。
しかし、物語はこれで終わらなかった。
ジャマイカチームは競技を続けて進歩した。
1994年、ノルウェーでの冬季オリンピック大会においてジャマイカは、アメリカ合衆国、ロシア、日本、そしてフランスを上回った。
現実においても彼らは勝者となったのだ。
オリンピックとは要は勝つことに意味があるのだが、勝つことというのは必ずしも一番になることではない。
競走は必ずしも速い者のものではない。
真のオリンピック精神は、勇気と辛苦を耐え抜く精神だ。
敗北はしたが、ラナトゥンゲ・カルナナンダと1988年大会のジャマイカのボブスレーチームは、本当のオリンピック精神における勝者であった。
スポーツにおいても人生においても、本当に大切なことはどのように行動し生きるかということだ。